梅宮アンナさんが語る、父・辰夫さんからの教えとその闘病生活

昭和の大スター・梅宮辰夫さんが慢性腎不全で亡くなって4年弱。まな娘の梅宮アンナさんは51歳を迎え、母のクラウディアさんと2人暮らしをしています。辰夫さんをみとった際のことやこれからについて聞きました。(聞き手・山口千尋)

両親は19年の初めに、渋谷の家を処分して真鶴で暮らし始めました。父の体調が悪くなってからは、私は毎週金曜日に学校を終えた百々果を連れて車で真鶴まで通っていました。

しかし、会いに行っても歓迎されることは少なかったです。元気な時は「よく来てくれた」と喜んでくれましたが、体調が悪くなってからは「何しにきたんだ」と八つ当たりされました。病気で体調が悪いからイライラしていたんだと思います。

最初は我慢していたのですが、「いくら病人でもそんなこと言われる覚えはない」と言い返すこともありました。母は「やめて、パパは病気だから」と止めるんです。大好きな父なのに、会うとケンカになってしまうのが、悲しくてつらかったです。

介護疲れによる殺人事件などのニュースを見るたびに、一人で抱え込まないで、分担することが大切だと思いましたね。我が家は幸い、母、私のほかに、ずっと父の現場マネジャーをしていた人も手伝ってくれていたので、なんとかなりました。

亡くなる1か月くらい前でしょうか。機嫌の悪い父に「もう来なくていい。帰れ」と言われ、「もういいよ。二度と来ないから」と言ったのが最後でした。あんなこと言わなきゃよかったと今でも後悔しています。

父の腎臓は、二つあるうちの一つが元々あまり機能していませんでした。機能していた方の腎臓が腎盂(じんう)・尿管がんになってしまい、亡くなる10か月ほど前に摘出して、透析治療を始めていました。

透析って1日6時間もかかるんです。終わると体中の水分が抜けてしまい、カラカラ状態。そばで見ていても本当に大変そうでした。

一度、父に私の腎臓をあげようと思ったこともあります。医師に相談しましたが「それは娘さんに何かあった時のためにとっておいてください」と言われて、できませんでした。

父は私たちにとって、とても大きな存在でした。母は悲しみに暮れていたけれど、私は相続や資産の整理などやらなきゃいけないことがたくさんあって、泣いてばかりはいられませんでした。

家のことは全部父が取り仕切っていました。母ができないので、今は私が父の代わりになってやっています。

そして、父はたくさんのお金を残してくれましたが、お金がたくさんあっても幸せにはなれないということがよくわかりました。父の死後、これまで親切にしてくれていた人が離れていったり、逆に近寄ってくる人がいたりと、人を信じられなくなったんです。お金の管理をするのも大変です。

「身の丈にあった生活をしろ」という教えです。高校生の頃に友人とハワイ旅行を計画したのですが、「高校生にハワイ旅行なんてぜいたくだ」と言って父はお金を出してくれませんでした。

旅行費用を自分で稼ごうと、アイスクリーム店、ビールの売り子、ビルの清掃と、アルバイトをしました。お金を稼ぐことの大変さを学びましたね。身の丈にあった生活をするというのは、今も私の中に生きています。

いいお父さんだったな、って思います。学校に持って

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